はじめまして、
業者さんにこのブログを作っていただいてはや10ヶ月、ようやく重い腰をあげてブログを開始することにしました。とにかく文章を書くのが苦手ですが、無い才能を振り絞って書いていこうと思います。
これからの記事で多々乱筆がるかと思いますが、どうぞお許しください。
今回は記念すべき第一回ですので、私の自己紹介を兼ねて、私の生い立ちをお話ししようかと思います。
大阪万博が開催された年、紅葉がきれいな10月に、これまた紅葉がきれいな
今考えればいい場所に生まれ育ったなと実感できるのですが、まだ若かりし頃はとにかく田舎で何も無いところですので、どこに行くのも遠い不便な場所としか思っておりませんでした。
小学生の頃は一番近い日光市立清滝小学校まで子供の足で40?50分かかりましたし、日光市立日光中学校に入学してからはバスで20分、さらに徒歩で15分ぐらいかかっていました。バスは1時間に2?3本ですので1本乗り遅れればまず間違いなく遅刻です。
(ちなみに日光市内の小中学校は坂が多いため、自転車通学禁止でした。)
そのころの楽しみは、旧今市市にあった「いせや」や「長崎屋」に行くことで、今思えばデパートではなくスーパーですが、お小遣いをため、いざそこに行くという前日の夜は楽しみで眠れなかったものです。特に長崎屋に早見優が来たときには、数日前から、所属していたバスケ部の練習をどのようにしてさぼるかしか考えていませんでした。また、「いせや」の第三駐車場には毎年「全日本プロレス」が興行に来るので必ず観戦しました。
栃木県立鹿沼高校に入学すると、さらに通学には時間がかかり、片道1時間半かけて毎日通っていました。
ただ、途中駅に下今市駅があり、必ず土曜日は途中下車し「いせや」や「長崎屋」に寄り、今市の知る人ぞ知る「ラーメン横丁」でラーメンをすすり、夜暗くなってから帰るという日課を大学受験直前まで続けていました。
そんな日々がたたり、高校時代の成績は決して良いものではありませんでした。
まったく勉強しないのですから当たり前ですが。
なんとか奇跡的に、横須賀の神奈川歯科大学に一発で合格したときには、自分でも驚いたぐらいです。
ちなみに私は幼稚園児のころから、「将来なにになりたい?」と聞かれると、「お医者さんか歯医者さん!」と必ず答えていました。
次回は、「私の生い立ち(大学編)」を、皆さんがまったく興味が無いのを承知で書かせていただきます!